地下通信 [chika-tsûshin]

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2005年 05月 29日

複製人間

 最近気になったニュースから。5月20日付の「朝日新聞」が一面トップで報じたほか、同日付各紙も1面で大きく伝えたところなどによると、韓国・ソウル大の黄禹錫教授チームがクローン技術を利用して難病患者のES細胞(胚性幹細胞)生成に世界で初めて成功したのだという。

 こうした分野を専門としている訳でも何でもないのだが、各メディアの報道などをもとに今回の研究をごく大雑把に記せば
1)女性から提供を受けた卵子から核を抜き
2)代わりに難病患者の皮膚から取り出した核を入れて「クローン胚」を作成
3)これをもとにし、あらゆる細胞に成長可能なES細胞(胚性幹細胞)をつくるのに成功した
 ーということのようだ。ES細胞生成率の大幅向上を成し遂げたことも意義深いらしい。

 さて、こうしてできたES細胞は皮膚細胞を提供した難病患者とDNAなどが一致する。そしてES細胞はあらゆる組織に成長可能という特質を持つらしく、理論上は拒絶反応のない臓器や組織の生成が可能となる。例えば糖尿病患者ならインシュリンを分泌する組織をつくって患者に移植すれば根本的な治療になり、つまりは自分の臓器や組織をつくって病気を根本治療するという、いわば「究極の医療」が可能になるかもしれないというのである。難病患者にとっては待望の朗報。まだ技術的には難題が数多く残っているようだが、実現すれば確かに画期的成果といえるだろう。

 ただ、周知の通り「クローン胚」を女性の子宮に戻すと「クローン人間」が誕生する。こうした理由から世界各国でもクローン胚研究を許可している国と禁じている国とが割れているのだという。もちろん「クローン人間」を許している国などないと思われるが、例えば今回の研究が行われた韓国は「クローン人間」を禁じつつ医療目的での研究は許可。日本もほぼ同様の方向だが、実際にはまだ「指針」作りに手間取っているらしい。
 一方、米国は完全禁止。米議会は限定容認を目指す動きが過半数を超える勢力になっているが、ブッシュ大統領は初の拒否権行使までほのめかしており、研究にゴーサインが出るかどうかは不透明だ。世界的に見ると、今年3月に国連総会は治療目的も含むすべてのクローン技術研究を禁ずる政治宣言を賛成多数(賛成84カ国、反対34、棄権37)で可決している。賛成は米国やイタリア、中南米諸国など。日本や韓国は反対に回り、中国やベルギー、シンガポールなども反対したという。完全禁止派はキリスト教国が多いのが特色で、宣言には法的拘束力はないとはいうものの“世界の多数派”は完全禁止を訴えている、というのが実情のようだ。

 こうした状況下での黄教授チームの研究「成功」に関しては、「国際的コンセンサスも出来ていない段階で功を焦っている」との批判もあるらしい。もちろんブッシュのようにゴリゴリの「キリスト教原理主義」的発想に基づく「絶対容認できない」論に強い違和感を禁じ得ないし、科学者の研究を、それも医療目的に限定した上での研究を宗教原理主義的な立場から全面禁止するのは論外だろう。何より今この瞬間も苦しんでいる難病患者を救えるかもしれない技術だとするなら、である。

 もちろん現状の技術では女性の卵子提供が必要という部分に引っかかりもある。黄教授チームは今回の研究だけで180個以上の卵子を使い、このうちES細胞生成に成功したのは11個だったという。これでも大幅な技術向上なのだといい、今後は成功率も一層高まるだろうとはいうものの膨大な卵子提供を必要とする部分には抵抗感も残る。
 しかし、「クローン人間」への道を厳密に塞ぎつつ、治療目的での研究は進めて行くべきだ、というのが常識的な線だろう。

 ところで、だ。つらつら考えてみるに、この技術がどんどん進化・発展していくと、前述したように「自分の臓器や組織」をつかった「究極の医療」が可能になるわけであり、まさに「夢の技術」なのだが、素人であることを敢えて繰り返した上で記せば「病気というものがほとんどない」世界になるかもしれないのである。突き詰めて行けば、「生命の価値」というのが大きなパラダイム転換を起こす可能性すらあるのではないか。
 仮に「クローン人間」ではなくとも、「自分の(臓器などの)クローン」が常に存在する、あるいは「製造」が可能な世界になるかもしれない。医療とは、どこまでが許容され、どこからが許容されないのか。例えば今回の研究成果の応用が期待されると各紙が書いている糖尿病や骨髄移植などはいいとして、臓器の一つとしての「脳」のクローン生成はどうなのか、どこで線を引くのか。

 これらはもちろん妄想である。だが、妄想ついでにいえば、ある独裁国家を率いる独裁者が自らに忠誠を尽くす人間のクローンをつくり始めたら相当に薄気味悪い情景が生まれるのではないか。例えばホロコーストという悪夢を実行に移したドイツ・ナチ、悪夢の人体実験に手を染めた旧日本軍の731部隊、あるいは核兵器開発を振りかざして瀬戸際外交を繰り広げる彼の国と、クローン技術が結びついたならー。大量破壊兵器と同等の、ある意味ではそれ以上に気味の悪い情景が生まれる可能性もあるのではないか・・・。

 自動車事故があるから自動車を禁止するのがナンセンスなのと同様、クローン技術も危険性ばかりに焦点を当てるのは無意味だろう。そしてもう一度繰り返すが、難病患者を救うかもしれない技術の研究を教条的な宗教原理主義で押さえつけるのは論外である。ただ、この技術の行く末を考えると、早期の国際的コンセンサスと枠組み作りが必要という気がするのである。
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by tikatusin | 2005-05-29 02:28 | KOREA
2005年 05月 04日

書評=我、拗ね者として生涯を閉ず(本田靖春)

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 壮絶、という表現しか思い浮かばぬ本田靖春の絶筆である。500ページを大きく超える分厚さだが、夢中になって一気に読み、時に絶句し、反骨の名にふさわしい物書きの喪失に虚無感を覚えた。しかし同時に、心の底から勇気をもらった。その理由は後述する。

 あらためて記すまでもないだろうが、読売新聞の社会部記者を経てフリーとなった本田は、『不当逮捕』や『警察回り』といった秀作ノンフィクションを数々世に送り出した尊敬すべきジャーナリストの一人だった。読売社会部が「社会部」の名に値する輝きの欠片を持っていたという時代、本田はその記者として暴れ回り、読売の絶望的衰退(現在の読売幹部にとってはもちろん“発展”なのだろうが)とともに社を去った。その後の読売の惨状は、恥知らずにも「世界一」をうたい、糞のごとき権力追従と「提言報道」を掲げる今の紙面を眺めれば一目瞭然だろう。「新聞」とは名ばかりの紙屑、である。

 だが正直に言えば、学生のころだったろうか、初めて本田作品を読んだ時は何ともいえない違和感を感じた。振り返ってみるに、当時は決して「リベラル」とは受け止められないような気がした本田スタイルへの拒否感だったと思うのだが、いわゆるサツ回りに象徴されるような情景を懐かしみ、慈しみ、あたかも無頼を気取って肩で風を切るがごとき社会部的な作品群から浮き上がる姿振る舞いに、メディアの旧来型風景を肯定するような臭いを感じ取ったような記憶も蘇ってくる。
 それは例えば、警察報道(=犯罪報道)というものに否定的な論調が出始めた頃と重なっていたことも原因の一つだったのだろうが、今考えてみれば、当時の現状認識の甘さに羞恥が湧き上がってくる。真の問題とは、組織の中で最後まで本田靖春的に振る舞えるかどうなのか、ということだったのだ。

 本田自身が記す通り、本田の軸は何も変わっていない。思想色薄き「拗ね者」がブン屋として本能的に否と唱えざるを得ない状況に否を唱え続け、社会部記者が本来の社会部記者であるべき姿を延々と、変わらず慈しんでいたに過ぎない。それが本田の一貫した佇まいだったのだろう。
 そう、「右」とか「左」とかではなく、言論機関をうたう組織の中に身を置く者の振る舞いとして、当たり前のことが圧倒的に行われなくなりつつある現状こそが病的なのだ。これも本田自身が記す通り、本田の居場所は変わらず、にもかかわらず本田があたかも過激であるかのように扱われるようになった状況を眺めれば、社会の軸が絶望的にずれたのである。

 もう一つ正直に記せば、本書の端々にはオヤジ臭い説教としか感じられぬような文字列もしばしば顔をのぞかせる。だが、糖尿病のため両足を切断し、視力をほぼ失い、肝臓や大腸に癌を抱えて苦痛にのたうち回りながらも「私は闘病と貧乏物語が嫌いである」と見得を切り、社会の矛盾や権威に毒づき続け、「拗ね者」としての生涯を閉じたという、その姿に心の底から勇気をもらった。陳腐と僭越を承知で敢えて記せば、さほど長くをない人生をどう処するかというヒントをもらったようにすら思う。「拗ね者」を称して最後まで「社会部記者」の生き様を貫いた本田靖春に、心からの尊敬と合掌を捧げる。(講談社、2625円)
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by tikatusin | 2005-05-04 02:06 | 書評