地下通信 [chika-tsûshin]

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2005年 04月 26日

書評=事件(大岡昇平)

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 少々古い本である。手元の文庫本の奥付は1980年発行となっており、末尾の解説によれば新聞連載による発表は1961ー62年、単行本化は1977年だという。
 実は最近、仕事のためバンコク、イスラマバードなどを結構な強行軍で転々とする機会があったのだが、機内や旅先で読む本を、と出発直前に本棚から引き出して鞄に放り込んだのが本書だった。
 いつ購入したのかも定かではない。少し黄ばんでいるところをみると、おそらくどこかの古本屋で、だろう。大岡昇平は好きな作家だが、買ったきり読まずに本棚に積まれていた。そんな本は何冊かある。だが旅に持っていくのはできれば文庫本がいい。何より荷物にならないし、紛失を気に掛ける必要もない。ポケットに突っ込んでおけば、少しの待ち時間も退屈しない。そう思って持参した一冊だった。
 というわけで、さて読むぞ、と勢い込む気持ちは全くないまま薄暗い機内でページを繰り始めたのだが、実に面白く、旅の中盤までには読了してしまった。
 いわば裁判・司法制度の在り方を問う社会派小説だが、日本推理作家協会賞を受賞していることからも分かる通り一種の推理小説の趣もあり、ここで詳しいストーリーの紹介は控える。
 ネタバレを避けつつ簡単に記すなら、神奈川県の小さな町で起きた殺人事件の“真実”をめぐり、弁護士と検察官、そして裁判官がギリギリのやり取りを繰り広げる法廷が主な舞台となった硬派サスペンス、といったところか。
 しかし実を言えば、殺人事件といっても極めて平凡。犯人も最初から分かっている。ストーリーに驚くほど劇的な展開があるわけでもない。むしろ淡々とした筆致で裁判の進行を追うだけで、ひたすらに法廷シーンが続くページでは「傍聴人」として裁判を見守っているような錯覚にさえ陥る。

 それでも本書が読み手を引きつけて離さないのは、平凡で小さな事件を題材にしながらも「裁判とは何なのか」「人を裁くとは一体どういうことなのか」「裁判における“真実”とは何なのか」という司法制度の根元を圧倒的なリアリティーで問い掛けているからだろう。行間から目に浮かぶ風景や社会背景はセピア色に褪せてはいても、テーマは全く色褪せていない。今に通ずるテーマを突きつける傑作小説だと思う。(新潮文庫、820円)
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by tikatusin | 2005-04-26 12:51 | 書評
2005年 04月 24日

愚劣な心性

 小泉純一郎首相がインドネシア・ジャカルタで開かれたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)50周年記念式典の演説で「過去に対する痛切な反省とおわび」を表明したのだという。
 中国は、かの国らしく様々な計算と戦略の下に一定の評価を下したようだ。しぶしぶながらも日中首脳会談に応じたことからもそれは伺えよう。一方の韓国は特に反応を示していないようだ。というよりも、意図的な無反応とさえいえる対応を見る限りは国内世論の動向を見極める姿勢なのかもしれない。いずれにせよ「言葉より行動を」ということで両国の立場が一致しているのは報道されている通りだ。
 だがここで、両国で燃え広がった一連の反日ムードによって日本が問われているのは一体何なのか、ということをもう一度考えてみる必要があるようだ。

 本ブログで既に触れた話題なので繰り返すのも野暮なのだが、敢えて繰り返せば韓国にせよ中国にせよ、その国内における過剰な「民族主義」や「ナショナリズム」には正直辟易する部分もある。それが一定期、被害者のそれとして絶対の価値を持ち得た感情だったとしても、現代の両国において反日を契機に湧き上がった「民族主義」や「ナショナリズム」の過ぎたる発露の部分に関しては何とも言えぬ違和感を拭えないことを前提にしておいた上で以下の文を続ける。

 それにしても、だ。戦後60年も経たのに、ここまで激烈な反日の源泉が隣国になぜ今も残されたままなのか。つらつら眺めれば、両国の怒りと不満を呼び起こす引き金となった日本の「ナショナリズム」にも、弁解の余地がない腐臭が漂っているのではないか。いや少なくとも、それを「ナショナリズム」などという単語を被せることすら赤面したくなるほど稚拙な言質がそこかしこに飛び回っているのではないか。
 憲法改正?、自衛隊の活動範囲拡大?、集団的自衛権の容認?ー。よろしい。一億歩くらい譲ってそれらを是認しよう。しかし、「創氏改名は朝鮮人の要望で始まった」、「(日韓併合は)彼ら(朝鮮人)の総意で選んだ」、、こんな愚劣な発言がなぜ平然と発せられる必要があるのか。ちなみに前者は麻生太郎・総務相の、後者は石原慎太郎・東京都知事の発言だ。下品というよりも、思考のあまりに表層的な浮遊感に唖然とさせられる。不快な愚劣を引き起こす愚劣の源は、まさに我々の足下にあるのだ。
 にもかかわらず、こうした発言が嘗てのように駆逐されることすらなく、むしろ堂々と跋扈し、蔓延している。恥じ入ることすらなく、である。

 「武士道」という言葉がある。好きな言葉でも全くないし、その単語の真の定義、あるいはその意味の真の有り様は寡聞にして知らぬが、どうやら「日本の伝統」に縋り付こうとする自慰史観主義者(笑)どもが大好きで仕方ないワードの一つであるらしい。潔しをもって尊しとなす。下らぬ言い訳はしない。しかし、だとすれば先に挙げた愚劣な発言など最も「武士道」から遠く離れたものではないのか。過去の過ちを率直に受容し、詫びるべきは詫びる。過ちを徒に正当化しない。潔いことを美とする。それこそが「武士道」なるものだとすれば、前者の発言にその欠片でもあるか。潔さの一片すらあるのだろうか。


 ところで、冒頭に挙げた小泉首相の演説である。1995年当時の村山富市首相談話を踏襲したものだというが、これぞまさしくご都合主義の極みだろう。かつての村山政権にはむしろ絶望を覚えることが多かったが、それでもいくつかは評価できる部分もあった。談話はその数少ない一つだが、それと最も遠い場所にあるのが小泉・自民党政権であり、今後はますますその傾向が強まるのは確実に感じられる。にもかかわらず、都合の良いときだけ村山談話を利用するその心性。なんと愚劣なことか。

 潔さの欠片もない下品極まりない糞発言が飛び交い、愚劣極まりない政治屋どもが「次期首相候補」などに数えられているのが現代の我が日本なのだ。問われているのはほかでもない、そうしたこの国の有り様なのである。隣国の支持も受けられずに国連安保理の常任理事国入り??。笑い話にもならぬ。ご都合主義の言説で当面の混迷を抜け出したとしても、その展望はあまりに暗い。
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by tikatusin | 2005-04-24 04:26 | 罵詈讒謗
2005年 04月 17日

書評=蜂起(森巣博)

 c0062756_23304695.jpgオーストラリア在住、「カシノ」での博打打ちが本業だという森巣博氏による新作「小説」である。「週刊金曜日」の創刊10周年を記念して同誌に連載されたものを単行本化した作品だ。
 これまで「神はダイスを遊ばない」(飛鳥新社)、「無境界の人」(小学館)、「越境者たち」(上・下、扶桑社)、「非国民」(幻冬社)等々、主に著者の本業であるというカジノやギャンブルを物語の主軸に据えながら、エッセイや自伝(?)、小説(?)などといった形態を取りつつ国家や権威、権力を痛烈に皮肉る作品を発表してきた注目の作者による新作だけに、本書も楽しみにページを繰った。

 率直に言えば、「小説」としてのストーリーは破綻気味だ。総400ページ以上というボリュームの前段半分以上を要して紡がれる現代日本の腐臭、それも伝統右翼やリストカット少女、腐りきった警視庁広報課の警視、セクハラを受ける広告代理店勤務の女性などといった極めてミクロな情景を通してそれを赤裸々に描きながら、後段部分で繰り広げられるクライマックスであるべき騒乱状態へとしっくりなじむ形で受け継がれていかない。壮大な序曲であるだろうと読者に予感させる前段部分に比し、後半部分は息切れ気味の感すら否めない。

 しかしそれでも、独特の切れ味で矛盾に切り込む森巣節は本書でも健在だ。警視庁公安部から広報課へと席を移した警視殿と、それを取り巻く警察官どもの絶望的な腐敗ぶり。権力広報装置としての警視庁記者クラブ詰めの大手紙記者どものお馬鹿ぶり。コミカルなデフォルメが施されているとはいえ、経験的に知る限りは生態を驚くほど的確に射抜いている。パチンコ利権を取り巻く警察官僚の極悪さなども秀逸に核心を捉えており、少し気の利いた記者なら誰もが知るであろうこうした事実を、一片たりとも伝えようとしない大手メディアの御用ぶりにあらためて絶望感すら覚える。

 そしてもう一つ、筆者自身が後書で記している通り、本書のメインテーマである「『テロ』をおこなう主体としての個人」とは一体何なのかという重大な問い掛けに対し、完全とはいえないまでも森巣氏がおそらく提示したかったであろう一つの像が結ばれている。そう、希望がないから「テロ」に走るのだ。別に特別なことではない。絶望的なまでに希望がなくなった時、人は「テロ」に走る。希望の皆無に突き落とされた身体を破壊に投じる。今、我々に希望があるか。「テロ」は意外と目の前にあるのではないか。
 だが人々は「テロ」という絶望の果ての行為に対症療法的な禰縫策で応じている。時に圧倒的な強権をためらわず行使して…。森巣が指摘する通り、「一人のテロリストを排除する目的で100人の住民を殺害すると、新たなる500人のテロリストが誕生する。『テロとの戦争』に終わりはない」にもかかわらず、である。

 ところで一つ、読了して森巣氏にこんな問いを投げかけたい衝動にとらわれた。絶望的なまでに希望がなくなった時、人はテロにも走りかねないが、ファシズムをも求めかねないのではないか。排撃と独尊による一時的な快感と忘却を求め、めくるめくファシズムの熱狂をー。今の日本を眺めると、そんな「絶望」にもとらわれるのだが、いかがだろうか。(金曜日、1890円)
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by tikatusin | 2005-04-17 23:35 | 書評
2005年 04月 12日

オヤジメディア

 海外に暮らしていると何度か記した。そのため日本の雑誌には網羅的に目を通すことができない。テレビや新聞といったお行儀の良いメディアより、雑誌の方がよほど好きなのだが、やむを得ない。それでも知人の好意もあってメジャー週刊誌では2誌を定期的に購読している。「週刊文春」と「週刊新潮」である。
 決してこの2誌を評価しているわけではない。しかしそれでも、かつてのゲリラ精神を完全に喪失してドン詰まりのサラリーマンのための妄想集合体と化している「週刊ポスト」などに比べればマシだろうという判断からに過ぎない(ヌードなどが悪いと言ってる訳では決してない。念のため)。
 しかし、“ホリエモン”率いるライブドアとフジテレビの争いに関する両誌の扱いや論調をつらつらと眺めていると、2誌ともにやっぱり哀れなほどオヤジ雑誌なのだなぁ〜と痛感させられる。とにかくホリエモン憎い、憎い、憎い……、ただそれだけなのだから(笑)。
 やっぱり、オジサンが苦労して、苦労して、必死に積み上げた虚像を、何の思想も根拠もなく(かといってオジサンの積み上げた虚像に思想性があるわけではないのだが)、破壊しようとするホリエモンは憎いんだろうなぁ、と。「新潮」なんて、ひたすらバッシング。ホリエモンが有利になろうと、不利な立場に立とうと、ひたすらバッシング。イタ過ぎるよ、「新潮」(笑)。
 もちろん、ホリエモンが素晴らしいなんて言うつもりはない。だがそれでも、もうちょっと書きようがあるでしょうに。
 例えばフジサンケイグループがホリエモンに乗っ取られた。で、日本のメディア状況が変わる??。変わらない。もし万が一に変わったとしても、これ以上悪くなることはない。フジサンケイグループがこの国のジャーナリズムに何をもたらした?。何をもたらすか?。こんな風に書くことすら恥ずかしいよ(笑)。
 ある説にはこういうことらしい。バッシングするならキャラが立っている方がいい、と。日枝よりはホリエモンの方がキャラが立っている、と。
 そう、その程度なのだよ。バッシングする方も、される方も。それでも、こんな2誌程度しか定期購読しようかと思わせる週刊誌媒体がなくなりつつある現状の方が、よほど憂うべき現象なのだ。
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by tikatusin | 2005-04-12 00:31 | メディア
2005年 04月 01日

連帯への希望

 何とはなくネット遊泳をしていたら、韓国のネット紙「オーマイニュース」にこんな記事を見つけた。既に相当有名になった「オーマイニュース」だが、あらためて説明すれば「すべての市民は記者だ」「ニュースゲリラたちのニュース連帯」を合言葉に創刊され、韓国で大手紙にならぶ影響力を誇るようになったネット新聞である。
 2回続いての竹島(韓国名では独島)などをめぐる日韓摩擦の話題だが、前回の「熱狂の不快」に関して明快に論じられた極めて示唆に富んだ記事だ。筆者は市民団体の幹部。もちろん大前提に「過去史や隣国への日本の不誠実な態度」が今回の問題の根底に沈殿していることを肝に銘じて読まねばならず、当然ながら「韓国にもこんな意見が」と嬉々とする自慰史観的な妄想勢力の行態とは徹底的に一線を画したい(笑)。
 いずれにせよ、こうした声が存在する限り、日韓の連帯は可能だ。希望を捨ててはならない。
 少々長文だが、ごく一部を略し、若干の意訳を加えたことを断った上でほぼ全文を紹介する。

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◎独島問題に興奮するあなたへ(イ・テギョン記者)

 独島問題で国中が騒いでいる。日本の島根県が条例で「竹島の日」を制定したのに触発されたこの事態は、一貫して微温的な日本政府の態度と間欠的に飛び出す日本の右翼人士らの妄言が加わり、ますます盛り上がっている。
 独島問題をめぐる日本政府と日本内の一部右翼人士等の態度が常に韓国政府と国民の眉間のしわをしかめさせることであることは今更言うまでもない。もちろん一部では最近の独島問題に関する日本政府の行動が以前とは異なる次元のものではないのかとの疑惑の視線があるにしても、だ。

 本当に心配しなければならないのは独島問題に対する国民たちの反応だ。今回の事態が起きた直後、大多数の国民が見せた対日感情の濃度とその表現方法は極めて激烈だった。街角では「独島はわが地」という昔の歌が新しいバージョンに衣替えして終始流れ、バラエティー番組やCMでも独島を題材にした内容が溢れている。
 また、興奮を抑えられない一部市民は指を切り、焼身自殺までためらわず、性急な一部ネチズン(ネット市民)は独島をめぐって起きる韓国と日本の武力衝突についての仮想シナリオを書くのに余念がないという状態だ。
 反日感情で熱くなった国民を鎮静させ、冷静に解決法を模索しなければならない与野党の政治家と知識人まで尻馬に乗って激高し、マンガにでも出てくるような話を口を揃えてするのを見ると溜息が出る。
 しかし興奮を抑え、一歩下がって今回の独島事態から学ぶことが何かをじっくりと考えてみると、期待できなかった成果を得ることもできる。
 もちろん今回の事態の直接的な原因の提供者は、植民統治に対して真の反省と謝罪をしないばかりか、独島問題を対外膨張のテコに利用しようとする日本政府と日本内部の極右勢力だということができるが、裏面に潜む何かが存在する。
 日本とのサッカーの試合に韓国の国民を熱狂させ、5000年の血統であることを誇らしく話すそれは、ほかでもない「民族」という存在だ。

 良く知られるように「民族」という存在は日帝植民統治を経験した韓国社会で神聖不可侵の絶対線だった。この民族の、侵略と支配を受けた経験は民族全体に一種のトラウマとして残り、民族、あるいは国家という概念はどのような場合にも譲歩できない至高の価値に引き上げられた。
 実は非常に抽象的な概念だけに、一部学者たちによると「民族」は「近代の発明品の一つ」とまで評されている。近代以降、人類は膨張的な民族主義から抵抗的な民族主義にいたる多様な形態の民族主義を経験し、依然として世界のいたるところで民族主義の勢いは凄まじい状況だ。
 とすれば、今も強い力を轟かせる民族主義が人類に与えたものは福音だったのか、でなければ災害に近いものだったのか?。肯定的に評価される抵抗的な民族主義ですら、事態が変わればいつでも膨張的な民族主義に転嫁する可能性を内蔵しているという事実からわかるように、民族主義が人類に与えた害悪は有益よりむしろ大きく見える。

 本来、民族主義とは胎生的に他民族への排斥を生まれもって孕んで生まれたという点で、「差別と排斥の原理」が作動するほかはない。そして「差別と排斥の原理」が作動する限り、人類が既に経験し、今も進行している民族間の争いの原因となる惨劇を避ける道はないように見える。
 古くはナチスによるユダヤ人虐殺から、近くではユダヤ人によるパレスチナ人への弾圧に至るまで、民族主義が人類の精神と肉体に残した傷は簡単に癒せないほど深い。
 民族主義から民族を抽出することはできないのか、と?。理論上では可能かも知れないが、現実的には可能ではないだろう。同一の血統と言語、集団的記憶と文化を共有する人々の集合を民族だとすることは概念上では許されるだろうが、ひとりひとりの個人を特定民族で規定する作業は現実的にやさしいことではない。
 民族主義を先導する現実のすべての矛盾と病弊を隠蔽し、外的に転嫁を試みる支配階級と、彼らの先導に簡単に応じる大衆が各民族の中に温存している限りは一層そうであろう。

 最近の独島事態の本質もやはり民族主義の範疇から大きく外れてはいないように見える。米国の庇護を受けて独島事態を挑発する日本にせよ、軍備増強と米韓同盟の強化でこれに対置しようとする韓国、双方から民族主義の気配が強く読みとれる。
 日本政府と右翼人士らは一貫して膨張的民族主義を求めたという点で一貫性もあるが、親日反民族行為者の清算に消極的で独島問題にも関心を見せなかった韓国政府と国民の過去の経験に照らしてみれば、その激烈な反応は多少身の程知らずに見えるのも事実だ。
 しかし同じ血統にあると考える朝鮮族らに対する韓国人の態度を見れば、民族と血統による情がそれほど深いようにも思えない。
 むしろ独島事態をめぐって広がる反日感情と民族意識は、大きくなった国力と2002年ワールドカップの経験などで生成された民族的自信感にその根を下ろしていると見るのが妥当だろう。そして、こうした自信感は、少し間違えば排他的で攻撃的な民族主義に変わる可能性がある。

 したがって、独島領有権をめぐって広がる一連の事態に民族主義、ないしは国家主義の視点で接近するのは非常に危険だ。領土守護という一見もっともらしく見える名分にも関わらず、独島問題を民族対決の構図で追い立てていくのは韓国と日本の国民すべてに不幸な結果を招来する。
 急激に軍事大国へと駆け上がる日本と民族主義の過剰に悩む韓国が、高揚する両国間の緊張を和らげて平和共存を模索するならば、両国の良心的市民が連帯し、組織化し、世論を醸成し、両国政府に圧力をかけることが最も効果的だ。
 間違いなく戦争の最大の被害者は社会的弱者であり、支配階級は安全だったとの歴史の経験を決して忘れてはならない。
 いまや韓国人も亡霊のように現れる民族主義の呪術から解き放たれる時が来た。
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by tikatusin | 2005-04-01 01:08 | KOREA